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「3.11」から8年

みなさんこんにちは。
岸和田市別所町のさかもと内科クリニックです。
当院ではお子様からご長寿まで幅広くプライマリケアを実践させて頂いておりますので、
内科・小児科、何れの方でも受診していただけます。

「3.11」から8年。

皆さまにとっては遠い過去の出来事、となりつつあるでしょうか。

当時福島にいて被災した私にとっては、実は未だに現在進行形の災害です。

当たり前ですが、ある日突然、故郷を棄損され、故郷を失う事態に遭遇するとは思いもしなかったことです。私は所謂、自主避難者の一人ですから、自分で故郷を捨てた、という側面もあるのです…。その折り合いをつけるのは容易ではありません。

核災害が無慈悲であることは、スリーマイル、チェルノブイリの前例をみれば明らかです。痛みの伴わない弾丸が無数に飛び交っているのに避けることができない状況といったら言い過ぎでしょうか。いや、そうは思いません。実際に目に見えない放射性物質が無秩序に風まかせに降り注いだのですから。半減期が29年のストロンチウム90 30年のセシウム137 2万4千年のプルトニウム239…それらは放出された核種のほんの一部に過ぎないのです。


所謂、テレビ、新聞というマスメディアでは、総じて東日本大震災から8年も経過した、復興へ向かって更に前進、というニュアンスで語られているようですが、
東京電力福島第一原子力発電所で発生したレベル7の原発事故という視点でみれば、たった8年です。

大事なことは、「8年前の災害」ではなく、「8年前に始まった災害」であるということです。

何しろ、3つの原子炉がメルトダウンしたままの福島第一原発内部の現状は、何も収束していないし、東日本大震災が発生した当日夜に発令された原子力緊急事態宣言は、この文章を書いている2019年3月11日現在まで1秒も解除されていないのです。

つまり「福島第一原発の危険な状態は2011年3月11日夜から変化がない」と日本国政府自身が言っているわけですね。

これから折に触れ、少しずつ私がどのように考え、行動してきたのかを振り返ってみたいと思います。

あの日、私は福島の父の診療所で午後の診療を開始していたのでした。


西日本と違い、午後診の開始時間が早く、14時から午後診を開始し、18時に終診するような時間配分だったのです。

2011年3月11日、14時46分、診察室で激しい揺れに翻弄されました。即座には患者と自分、スタッフの安全を確保する余裕すら与えられないほどの長時間の揺れ。診療所が倒壊するのではと思えた程でした。その後、頭に浮かんだのは自宅マンションに住んでいた当時1歳の息子と妻の安否はどうかということでした。

長い揺れが収まり、外に出ると、それまで晴れていた空がみるみるドス黒い闇で覆われたようになり、雪が降り出したのを覚えています。

原発が危機に陥ったという情報を知った後で感じたことですが、厳しい事態の始まりであることを暗示するかのようでした。あんな不気味な空はそれまでみたことがありませんでした。

その時点で診療は打ち切られ、家路についた時点で、既に幹線道路である国道4号線は、みたことのない大渋滞が始まっていました。もちろん高速道路は封鎖され、ほかに選択肢がないという影響もあったのでしょう。

約30キロ、通常なら40分〜小一時間の距離なのに、自宅にたどり着いた頃には4時間近く経過していました。


家族がとりあえずお互いの無事を確認したのは日が暮れてから、でした。

停電は免れたものの、断水していました。それは炊事にも支障を来し、まだ寒く厳しい夜に入浴すらできず、トイレも流れないということを意味していました。


この続きはまたの機会に。

今日は、震災後に私も知った故郷の詩人、若松丈太郎氏の詩を紹介した動画がありますので、ご紹介させて頂きます。

桜と予言と詩人 神隠しされた街 若松丈太郎 アーサー・ビナード

https://youtu.be/Zcr13_1Uk70 3